【東洋大学】鉄紺の灯は、まだ消えていない【第57回全日本大学駅伝(2025)関東地区選考会】

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ごきげんよう。鉄紺忍者です。

★ ① ついにこの日が来てしまいました。

今日は現地・レモンガススタジアム平塚で、静かにパワーを送り続けていました。

雨の匂い、応援の声、一秒をけずりだすスパート……目に焼き付けてきました。残念ながら、東洋大学は全日本本戦の切符を手にすることはできませんでした。けれど、こういう日のためにこそ、僕のような存在がいると思っています。

順調でなんでも上手くいっているときは、 多くの人は文章なんて読もうと思いません。

でも、今日のような日にこそ、言葉が必要だと思っています。

「痛いの痛いの飛んでいけ」の魔法を知っていると思います。あれは、落ちついて言葉にしてみることで、しゅわしゅわと……なにかそう言われるとそんな気がする、というのが、心を守るためには大切なのです。

そして、東洋ファンのみなさまへ。

今は無理にポジティブになろうとしなくてもいいと思います。

まずは今日、一生懸命信じて応援したご自身をどうか労ってあげてください。

美味しいものを食べてください。口に物が触れると、もう気持ち緩めて良いんだよって、脳に教えてあげることができるのです。

ぜひ暖かい場所で体を休めてくださいね。

そして、悲しみや悔しい気持ちが、どうか周りを傷つける方向に向かいませんように。

帰りの電車の中でこの文章を投稿しています。

★ ② 鉄紺選手たちの勇姿

今、1組から、現地の様子を思い返しています。

濱中くんが、鍛え抜いた大きな体をスイスイ運んでいく姿。

マシューくんが、だんだん位置を上げていき、得意のラストスパートを繰り出した瞬間。

迎くんが8000m過ぎに帽子のつばを後ろに直して、いよいよスイッチ点火、もう表情はギリギリの中でしたが、ラストの叩き合いに向かっていく後ろ姿を見守っていました。

薄根くん、遅れてからも、足取りはしっかり、すごーく粘っていたのを見ていました。東洋大学が、彼をひとりぼっちにしないチームであることを信じています。

網本くん、私ではないですがスタンドから声をかけたファンに丁寧に帽子をとってお辞儀していました。7位の某チームとの差が気になるところでしたが、最後にスパートで追いつきながらゴールしたのでした!

出場が心配されましたが、土壇場でエントリー変更、最後尾からじっくり攻めていきどんどん上げていった緒方くんの姿。3組ともなるとハイペースなんですが、二人ともしっかり集団に残っていました。

内堀くん、パッと見、肌が白かったのであまり積めていないのかなと思いきや、入場すると胸板がムキムキでビックリ。しっかり鍛えてきましたね。

松井くん、後ろにいても安心、前にいても安心の、4組エースらしい走りでした。(松井くんのことだから冷静にペースを見極めているのだろうと思えるし、上がってきたら、やっぱりキタキタと思える)


★ ③ 悪循環を断ち切り、もう一度、自信を取り戻すために

思い出してみてください。
1月2日。衝撃の朝。4年生エースの欠場。
揺れる展開の中、みんなで必死にタスキを繋ぎ、4区岸本選手でついにシード圏内に。


最後は10区薄根選手が恐怖に打ち勝ち、
シード権を守り抜いてくれました。

あの日、紙一重をくぐり抜けていなかったらと思うと……、ゾッとします。
今日という日はもっと違う意味になっていたと思います。

今こうして「来年も、箱根を走れる」という希望があるのは、
あの日、ピンチを乗り越えたからです。

今回の予選敗退は、決して小さな出来事ではありません。
けれどこれは、ある意味では「悪循環を断ち切る転機」となるかもしれません。

特に昨年、東洋大学は、6月下旬まで神経を張りつめ、すぐに夏合宿に突入していました。


疲労を抱えたまま、本来なら貯めるための夏を、回復に費やすことになり、
まるで「もう朝か!」と飛び起きるかのように、秋を迎えてしまう……


そんなサイクルから、今年はいったん、5月24日で戦いを終えられる。
6月まるまる、自分たちの状態と向き合える。


疲労を抜き、身体を整え、暑熱順化、
低酸素ルームでの高地順化、から積み直せる時間がある。
これは偶然ではなく、巡ってきたチーム再構築のチャンスなのだと思います。

そして、秋。
出雲駅伝には、最強の6人を送り出せる。


これまでなら全日本や箱根のことを考えて主力温存や調整起用が常でした。
でも、今年は違います。
ためらうことなく、出雲にピークを合わせていい。
久しぶりに、おもりをひとつおろして、あの舞台でぶつけられる年です。

★ ④ 全日本大学駅伝を逃した箱根シード校の例

過去には、この流れを活かして躍進したチームがありました。

2020年度の創価大学。
全日本選考会(この年は書類選考)を突破できず、悔しさを抱えながら、秋をじっくりとトレーニングにあてました。


その結果、箱根駅伝では往路優勝、総合2位という快挙を成し遂げています。
(アンカー10区で駒澤大学が逆転優勝したことがあったでしょう、あの年です)

2022年度の法政大学もまた、全日本には出場できなかったものの、
箱根では9区まで3位争いを繰り広げ、最終的には堂々の総合7位。

焦らず、じっくりと力を蓄える。今年の秋冬を楽しみに待っています。


★ ⑤ ランニングを始めてわかってきたこと

駅伝小説を書くようになってから、自分でもランニングを始めてみました。
すると、数字や理屈ではわかっていたはずのことが、体感として見えてくるようになりました。

たとえば、月間走行距離は急に増やせるものではありません。
安全に増やせるのは、前の月と比べてせいぜい15〜20%ほど。
これを越えて急に増やそうとすると、たちまち故障します。

距離を“増やす”のは大変なのに、“減らす”のはあっという間。
だから、夏の間に抱えておけるおにぎりを増やす必要があるのです。

距離という名のリュックを、夏にあらかじめ大きくしておく。
すると、出雲駅伝でスピード仕様になって、多少荷を下ろしても、また11〜12月に向けて担ぎ直すことができる——


それが、年間ピークを箱根路へ合わせていく、例年の流れなのだと、今はよくイメージできるようになりました。

そして私自身、夏に「伸びないなぁ、伸びないなぁ」と思いながらも継続していたら、
なんと11月あたりから一気に速くなりました。


いつレベルアップしたのか気付けないほど、毎週のようにジョグのペースが上がっていくのです。

つまり、暑かったので、自分が速くなっていることに気づかず走っていたのです。

夏合宿でしっかり走れたら、涼しくなったらもっと走れるぞ!

すみません、話題をトップ選手に戻します。

プレート入りの高反発シューズも見逃せない要素です。


あの靴は、ただ履けば速くなる道具ではなく、
「曲げる」ための脚力が必要なシューズです。

理想的なレース配分は、前半からプレートをしっかり曲げて“乗って”いくこと。
1km2分50秒で押して、その勢いを持たせる走りです。

昔のように、シューズのクッション性が低く、足への衝撃が大きかった時代は、
「後半勝負」「前半は抑えろ」と、ジープ車から何度も監督が叫ぶような時代でした。

でも今は違います。
プレートに“乗る”走りを選ぶなら、前半からアクセルをしっかり踏んでいく必要があります。

プレートシューズは、お願いしてもあまり言うことを聞いてくれません。
特に筋力が足りないと、後半にもう一度プレートを曲げるだけの余力が残っていないので、容赦無く失速します。

一方、私のようにノンプレートのシューズを履いている場合は、
自分でコントロールして、ペースを「作る」感覚になります。
微細なペース変化や自分の脚と対話しながらの調整が、しやすいのです。

でもやはりトップレベルで走るには、プレートシューズの流れに乗っていくしかないのだと思います。

継続使用による身体への負担も大きい。
仙骨、腰、臀部などへのダメージが蓄積し、長期的な故障にもつながりやすくなります。

だからこそ、練習に“耐えられる”ことも一種の才能なのだと思います。


そして同時に、耐えられる身体をつくること。
それもまた、駅伝選手たちが日々積み重ねている「努力」の一部なのだということを、
今、私はほんの少しだけ、改めて想像・実感できるようになりました。

★ ⑥ 時代とともに変わる、東洋の挑戦

10年前、駅伝のエースたちは、三大駅伝はすべてに出るのが当たり前でした。
しかし今、私たちは知っています。
高反発シューズの登場により、選手たちの身体には、想像以上の負担がかかっていることを。

地面からの強烈な反動を受け止め、カーボンプレートを使いこなす。
速さだけでなく、筋力、腱の強さ、神経のシャープさまで問われる時代になりました。

だからこそ、もはや、すべてにピークを合わせることは不可能に近い。
出雲、全日本、箱根、記録会——
それぞれの目標に合わせ、選手たちを大切に育てる時代が来たのです。

東洋大学も、変わろうとしています。
苦しい結果に見えるかもしれない。
でもこれは、新しい道を探すための、大きな一歩かもしれません。

11月、全日本の舞台に立てない代わりに、
1月、箱根路で、再びすべてをかけられる。

変わらなければ、生き残れない。
でも、変わっても、東洋の魂は変わらない。
そのことを、私は信じています。

★ ⑥ 日本学連選抜で、1人だけ舞台に上がれる可能性
スミマセン、ここはもうちょっと調べてから書きます。

★ ⑦ 応援の力は、確かに意味がある

私が「鉄紺襷のせかい」というサイトを作ったのは、
97・98世代のスター選手たちが卒業したあと、
その先も応援が途切れないようにと願ったからでした。

勝てるときもそうでないときも——
それを合言葉に、記録会の情報、選手一人一人のページ、分析ブログ、とだんだんコンテンツを増やしていきました。

応援の力は、必ず意味があると信じています。

あるとき、東洋大学のとある応援団体の会計報告会に遭遇したことがありました。
扉の向こうへ耳を澄ますと、
「今年は寄付金でマイクロバスを買えました」
正確にはわかりませんが、私にはそう聞こえました。

(※鉄紺忍者として活動する前の出来事です)

私は、そのときに気づいたのです。
自分はトップオタ的に応援しているつもりでいたけれど、
物理的に、現場で、実際にチームを支えている人たちがいる。

それを考えると、もっと謙虚であっていいなと。
でも同時に、純粋な外部ファンのパワーも、決して意味のないものではない、とも思ったのです。

支援がある。設備もある。
そして、東洋大学の名前に反応し、ニュースに喜び、情報を追いかけるファンがいる。

その存在と熱がある限り、
スポーツメーカーも、ゼリー飲料会社も、地域も、そして未来の選手たちも、
「東洋大学に力を貸したい」と思ってくれるはずです。

波はあるでしょう。
でも、何も太刀打ちできなくなるようなチームではない。ベースが整っている。哲学がある。そういうチームだと思います。

そして、
現地に行った人も、配信を見守った人も、あとから速報を追った人も、
それぞれの気持ちは、目には見えない「素粒子」として、きっと届いている。

東洋大学は、特にそれを知っているチームであると思うのです。




★ ⑨ 鉄紺の記憶を、忘れられない

2025年の箱根駅伝、現地で見た東洋大学のユニフォームの、
あの凛とした鉄紺の輝きを、私は忘れられません。

時を遡っていきます。

石田選手が繊細な胸の内を明かしてくれました。
「東洋の伝統ってどれだけ重いんだろう」
「一人一人が想像しないと」
梅崎選手の揺れる白手袋。6分台の衝撃。

「松山お前、前行け」
熊崎選手が仲間に声をかけながら集団走に取り組む姿。

前田キャプテンの渾身の71分21秒。
木本選手の笑顔がパッと開いた、あの区間賞の走り。

そして思い出すのです。
「俺も諦めないから、宮下も諦めないで行こう」
チームを背負った宮下選手の走りの映像が、未だに心のよりどころになるときがあります。

「に、人間じゃねえ」「原宿まで買いに行きました」「58分30くらいで……(なんで下がってんの)」
数々の名言 (迷言) で私たちを笑顔にしてくれてありがとう。

「西山、前に出た!」
六郷橋での軽やかな足捌き。華麗な独走。今でも目に焼きついています。
あの走りは、鶴見中継所の先頭の空気、さらには東洋の未来までをも切り開いていきました。

「俺がエースになってやる!」
「鉄紺のユニフォームは鋼の如し!」
相澤くんのオリンピックの夢を、一緒に追いかけさせてもらったこと、そしてこれからも応援できる時間が、何よりの誇りです。

2強と言われた中、出雲駅伝3区の西代橋で、
カメラの奥で蜃気楼のように現れた山本修二くんの鉄紺ユニフォーム。
あの一瞬を、忘れたことはありません。

「お前が目指すのは世界だ! 完全燃焼してこい!」
「強い東洋が帰ってきました!」
「東洋大学まだおわらなーい!」
感動をありがとう。あれで私は、“二度” “三度” ファンになったのかもしれません。

「あと100メートル届かないか!」
「やったぞ、田中!」
「これぞ神業、柏原!」

どの記憶も、大切な宝物です。
いつもそこには、鉄紺のユニフォームがありました。
鉄紺のスピリットがありました。
そしてどの時代も、私たちの心を震わせてきてくれました。

あの頃と今とで、もちろん選手も状況も変わっっています。
けれど、この精神だけは、決して色褪せることがありません。

そして、今この瞬間、どれほど悔しさに包まれていようとも。
また待っています。
鉄紺の風が吹く日を。

⑩ 最後に

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

私は「鉄紺の結束」というスローガンがすごく気に入っています。速さを追い求める中でつい忘れがちなことを、よくぞ打ち出してくれたと思っています。

これからも応援したいチームでいてくれて、ありがとうと思います。

「みんなよく頑張ったよ」と今は伝えたいです。



広橋真紀子『幸せな眠り』
https://youtu.be/I3JWsnV1TZs?si=iYHZOsvZ-REtyBHe


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