1-2. 箱根に通う日々【箱根駅伝小説 B-Ambitious】

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沼さんと二人、箱根にある保養所に通う合宿生活が始まったのは、十月の終わり頃だった。

金曜日、十六時半。講義が終わると、颯は寮に戻って黙々と荷造りを始める。

シューズ、着替え、手袋、ウィンドブレーカー。山の夜は冷えるから、ダウンジャケットも忘れずにリュックに押し込む。それからお風呂セットに、モバイルバッテリー。

あとは、沼さんの真似で使い始めたフォームローラー。脚のケアが追いつかないと、土日で潰れる。

一応ノートパソコンも入れていく。レポートの提出期限が近い。けれど、本当に開く気があるのか、自分でも怪しかった。

そして、何より大事なのがライト。先週はこれを忘れて、ひどく怒られた。

「暗くても見えるから、じゃない。自分の身を守るためなんだよ」

ランナー自身の存在を車両に知らせるため。三郎コーチはそう言った。

普段温厚な人だから、声を荒げられて驚いた。以来、ライトを見るたび、その言葉が脳裏に浮かんで離れない。

ちなみに、山の練習をするとき、大学のジャージを着るのはご法度だ。制度上、コースの試走は認められていない。

しっかりルールを守っていても、たまたまコースの近くを歩いていたのを見られて、「七林しちりん大学の選手がコースを走っていた」なんて通報されたら面倒な話になる。

代わりに貸し出されるのが、反射板付きの真っ白な無地のジャージ。これならば、どこのチームの学生か、見た目じゃ絶対にわからない。

「それ、ファスナーの持ち手、壊れてるやつだろ?」

沼さんがニヤけながら言った。

「うわ、ほんとだ。使いづらいっすね。最悪」

ちょっとした文句のつもりだった。けれど、颯の視線は自然と、沼さんが着ている同じジャージのほうに向いた。ファスナーがきちんと閉じる、それだけのことが、やけに羨ましく思えた。

「わかった。これ、沼さんが壊したんでしょう」
「ちげえわ」

笑いながら否定した沼さんの声は、どこか空気が抜けたように軽かった。それに、なんだかずっとニヤニヤしているから、余計言い逃れに聞こえる。

「あのなぁ」

黙って怪しみ続ける颯を見て、沼さんが痺れを切らして口を開いた。

「それ、壊したの、柳原さん」

一言で、白ジャージの中が汗ばんだ。

「えっ。えっ。これ、柳原さんが着てたんですか。マジすか?」
「そんな嘘ついてどうすんだよ」

ただの練習着だと思ったら、とんだレジェンドアイテムじゃないか。

壊れたファスナーの根元に指をかけて、ぐっと掴んだ。

まるで、お守りのペンダントでも握るみたいに。



その後、三郎コーチの運転する車に揺られ、保養所に到着する頃には夜になっていた。すでに食堂から夕飯の匂いが漂ってきている。

「いっただきまーす!」

しっかり食べて、明日の練習に備える。

白飯の上に、ゴロゴロとした大きな角煮を乗っけて、かき込む。甘辛いタレが染みた脂身が、噛むたびにじゅわっと溶けて、空腹の胃にずっしり届いた。


正面の沼さんが茶碗を持ったまま、つぶやいた。

「箱根駅伝を目指しているとな……」

箸が止まる。颯が顔を上げると、沼さんは虚ろに窓の外を見ていた。

「人一倍、秋風の切り替わりに敏感になるんだ。そのうちあっという間に、あと何日だ、って数え始めるぞ」

そうか。この人は四年間、「今度こそ」と思い続けて、ついに最後の山生活が始まったわけだ。どうりで言葉に重みがある。

「今から急に速くなることなんて、ない。……やれることって、意外と少ないんだ」

沼さんは、それ以上は何も言わず、黙々と箸を動かし続けた。



翌日の早朝練習。その日はいつもにもまして冷え込んでいた。

なるほど。沼さんの言っていた通りかもしれない。

土曜日はいよいよ山を攻める。

早朝四時だ。ストレッチとアップを済ませても、まだ辺りは暗かった。

颯は初めて知った。富士山の輪郭にポツポツと見えるあの灯りは、山小屋に泊まっている登山客のものらしい。そもそも、こんな間近で富士山を見たこともなかった。


坂の序盤は、落ち着いたジョグペースで入る。

本番さながらに全コースを走ってしまうと、負荷が大きすぎて故障の原因になる。だから練習では、日によって本域で走るセクションを変え、分割して感覚を掴んでいく。

三郎コーチが低速ギアで車を並走させる。後ろから車が来れば、窓を開けて「抜かしていいですよ」と合図を送る。そうやって、くねる坂道を生身で走る自分たちを守ってもらっている。

二人の足音だけが暗い道に刻まれる。

少しずつ息に音が入ってきたあたりで、沼さんが自然にギアを上げた。

ここからはレースペースでの練習。颯もそれに遅れまいと、足を切り替える。

登りは互角だった。山に来た当初は離されたけど、今週になってだんだん慣れてきた。今日は余力がまだある。前に出ようとしたら、沼さんが「シッシッ」と手で振り払った。下がってろ、とでも言いたげだ。

だが颯は、いつまでも後ろで大人しくしているつもりはなかった。

(年功序列なんてものは、山の世界に存在しない!)

先にスタートしただけで、ずっと前を確約されていると思われちゃ困る。颯は沼さんの手を避けて、そのまま追い抜かしてやった。

初めて頂上付近まで一緒に来られた。今日は勝てるかもしれない。そう思っていた。

けれど、コースが折れて、下りに入った瞬間だった。沼さんの影が横から一気にぶっ飛んできた。

(あれ、速い……?)

そう思った次の瞬間には、もう背中が前方にあった。走りが明らかに変わった。

颯の脚は、山の斜面にアイゼンを突き刺すように痛々しく接地している。しかし沼さんは、山を受け流すように流れていく。足音が軽い。弾んでいるのに、跳ねていない。

差が広がり、背中はどんどん暗がりに溶けていってしまう。

「じゃあ、6区行けよ……」

思わず、声が漏れた。悔しい、を通り越して、唖然としてしまった。

ちょうど逆コースにあたる、下りの6区を走ればいい。そう思うくらい、残酷なほどスムーズに駆け下っていく。

いつもは山の中腹で離されていたから知らなかった。一番差がついていたのは、頂点を過ぎた「下り」だったんだ。

実際の5区のコースにも、ラストに芦ノ湖へ向けての下り坂がある。

どうやらこのポイントは、ペースもフォームも、まるで別のランナーが乗り移ったみたいに、走りを切り替えなきゃいけないらしい。

ゴール地点の駐車場で合流したとき、沼さんはすでに静かに呼吸を整えていた。

颯は、真っ直ぐ立てない。声も出せない。

頂上付近では遮るものがなくなり、逆風が襲いかかる。その中をもがき尽くして下るしかなかったせいで、みぞおちを殴られたみたいに、ガクガクと腹筋が痙攣して動けなかった。

横顔をチラリと見やると、その人は涼しい顔をしていた。

(くそっ)

車から降りてきた三郎コーチが、対照的な立ち姿の二人を目撃する。首から下げたストップウォッチを交互に眺めている。こんなんじゃ、どちらが選ばれるかは、一目瞭然だ。

まだ自分は、山の全部を知らない。今、ようやく思い知らされた。


【B-Ambitious 第1章 箱根駅伝 5区山登りを攻略しろ!】

◯ キャラクター辞典

① 山を目指して(ひとつ前のエピソード)

② 箱根に通う日々

③ その日は突然やってきた(次のエピソード)

④ 生きた証

⑤ 激坂の終わり

⑥ 渾身の71分

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