下り坂の連続カーブで、物凄い重力に振り回される。
足を止めず、ただ前へ、前へ。

遠くに見えていた背中が、いつの間にか、すぐそこに迫っていた。
(もう少しだ)
相手も必死だ。天を仰いでよろけながらも、なんとか脚を回している。
下り坂の終着点。元箱根の交差点で、沼は並び、そして抜いた。
それを目撃した沿道の観戦客が沸いた。
「おおっ。抜いたぞ。どこだ、黄色いチーム」
「シチリンだ! どっちもがんばれ!」
これで12位。シードまであと二つだ。
だが、沼は喜びを表には出さなかった。
まだゴールは先だ。
再び、前方には抜ける相手がいなくなった。順位を上げられるのは、今度こそ、ここまでかもしれない。
こうなったら、明日のために、見えない差を1秒でも縮めておくしかない。
復路のみんな、あとは頼んだ。
颯、明日、お前が走るんだぞ。
復路のトップバッターとしてかましてやれ。
胸の奥で、何かがはじけた。
(よし)
坂を下り切った足に、もう一度、力を込めて。
沼は次の一歩を踏み出した。

* * *
入学してから三年間、沼には出番がありませんでした。それでも、黙々と力を蓄えてきたといいます。
ついに四年目にして、憧れ続けた5区の舞台に立っています!
七林大学、総合12位に浮上!
明日の復路、シード権獲得に向けて、希望を繋ぐ懸命な走りが続きます!
◇
ラストスパートに入った沼信之介の脳裏に、なぜか、懐かしい光景がよみがえっていた。
1月2日。高校三年の正月だった。
すでにスポーツ推薦で、春から七林大学への進学が決まっていた。
(さーて、ウチの大学はどんなもんかね、っと)
家のテレビで、箱根駅伝をぼんやりと眺めていた。
そこに映っていたのは、当時一年生の柳原さんだった。
見たこともないような走り。
坂をものともせず、鬼の形相で、路面を踏み潰すように登っていく。
『山の神、ここに誕生!』
(……ふざけんなよ)
憧れていた場所に、とんでもない化け物が現れてしまった。
頭を抱えた。素直に喜べるわけがなかった。
案の定、入学してから三年間、自分に出番は回ってこなかった。「柳原がいれば5区は安泰」という声の傍で、ひっそりと、ただ一人の声援もない道の端を黙々と走り続けた。
あのときの自分に、教えてやりたい。
お前は諦めなかった。
四年かかったけど、ちゃんとここに来たぞ、って。
箱根恩賜公園前、残り1キロの看板を通過した。
「今、1時間8分12! ラスト2分45で行けば70分台! 大記録だ!」
おい、無茶言うなよ。
普通の選手ならそれで「よし、頑張ろう」となるのかもしれないが、コースを熟知し過ぎた沼は、そうもいかない。
(ラスト1キロ、地味に登るんだぞ?)
もちろん監督だって、それくらいわかって言っているのだろう。
沼は、笑った。
(人間って、本当に苦し過ぎると、笑うんだ)
笑いながら、歯を食いしばった。
今日イチ、箱根を味わっている瞬間かもしれない。
最後のスパート。
脚はもうすでに割り箸同然。身体の芯が震えている。口の端から、何か垂れている。
それでも、止まれない。
テレビでよく見る最後のロングストレートにやってきた。やけに眩しい。
(これ、太陽か?)
それとも、意識が飛びかけているのか。
わからない。
でも、太鼓の音は、ちゃんと聞こえる。
すごい音だ。
こんなに応援されたら、前にしか進めないだろ。
(もう終わっちゃうんだな。俺の箱根駅伝)
最後のカーブを右に曲がる。
ゴールテープが、小さく遠くに揺れている。
本当はここ、写真に使われるから、サングラスは最後に外す予定だったのに。
(まあ、いいや。どうにでもなれ)
そんなこと忘れて、無我夢中で飛び込んだ。
ドンッ、パンッ、バババンッ。
大判のタオルを広げて待ち構えていたチームメイトたちに、遠慮なく突進した。
すぐに全身をくるまれ、視界が真っ暗になる。
顔を覆うその柔らかな感触に、なんだかホッとしてしまって、その場で腰から一気に崩れ落ちた。
「んあああああっ。もう二度とこんなところ走らん!」
それを聞いて、みんな笑っていた。
(やっと、終わったんだ)
気づくと、沼はお姫様だっこをされていた。
誰が運んでいるんだ。視界が狭くなっていて、目の前しか見えない。
みっともないからやめろ、と言いたいところだが、そんな場合ではないほど、体はグッタリしていた。
「マジでおつかれさまです」
それは、3区を走った一年生の北條の声だった。
なんだ、こいつヒョロそうなのに意外に力あるな。
頼もしい後輩に抱えられて、手首の時計が顔の前で揺れている。
こんな状況でも、ちゃんとフィニッシュでスプリットを切ってあった。
ラスト1キロは、2分58秒。
(なあ、監督、来年のために覚えとけ。5区のラストって、3分で帰ってきたら、大激走なんだよ)
救護テントの中で、区間5位と知らされた。
1時間11分10秒。山の神には、かすりもしなかった。
けど、平地でなんの実績もない山専門の選手としては、出来過ぎなくらいのタイムだった。
もういい。何もいらない。全部出し切った。
ずっと忘れない。
ひっきりなしに耳に届いていた大声援。そして青空の中、大盤ぶるまいではじける、花火の祝福を。
▼ 続き
【B-Ambitious 第2章 箱根駅伝6区・山下りを攻略しろ!】
2025年5月2日現在 執筆中
【B-Ambitious 第1章 箱根駅伝5区・山登りを攻略しろ!】
◯ キャラクター辞典
⑤ 激坂の終わり (ひとつ前のエピソード)
⑥ 渾身の71分 ★