本当に、バカみてえなコースだ。
沼信之介は、もう50分以上、どこまでも終わらない重たい壁をひたすら受け入れ続けていた。
足を出すたびに重力が何倍にもなって押し返ってくる。容赦なんか、これっぽっちもない。
「おい、沼。15キロ通過、52分33秒」
応える余裕なんかなかった。
今はただ、脚を動かすことだけにすべてを注ぐ。それだけでいいはずだ。
「もう後ろとは10秒離した。そろそろ頂上だ。ここで休むな、一気に行け!」
鬱蒼とした森林の中で、石堂監督の声がやけによく通る。
沼は13キロから14キロの間に(目印になる建物が何ひとつないのでこう表現するしかない)、しばらく前方に見えていたチームを追い抜き、ついに13位まで上がっていた。

このあたりまで来ると、箱根登山電車の駅もなくなって、あからさまに観客が減る。
だから、ここは集中力が切れやすいところなんだけど、抜けそうな相手がいたから助かった。
ふと顔を上げると、ずっと続いてきた壁が途切れた。
(……下りだ)
沼は胸の奥に火を灯し、飛び込んだ。
(よし、ここからだ。どんどん抜いていくぞ)
しかし。
芦之湯のバス停が見えてきた、そのとき。
道が開け、コースが眼下に広がった瞬間、沼は立ち尽くしそうになった。
(……いない)
瞬きをして、目を凝らしても、前を行く選手の影すら見つけられない。
白く濁った膜のような空の下で、冬枯れの草木が茶色や黄土色にくすんでいる。彩度の抜け落ちた山肌が、どこまでも続くだけだった。
(……これが、現実か)

13位までは、ある程度安定した走りができれば、上がってくることができた。
だが、12位からは違う。
シード校、常連校、インカレ入賞常連のスピード集団。どこを見ても実力校ばかり。
決定的な走りをしない限り、順位は上がっていかない。
(くそっ)
下り坂で一気にギアを入れ替え、見えない12位の選手を追う。
視界の先で、給水役のチームメイトが、左側のドール美術館の駐車場からひょっこりと姿を現した。
利き手で受け取れるよう中央分離帯まで出てきてもらい、下り坂の加速がついた沼と合流。そして、しばし50メートルの並走。
ペットボトルの水を頬に蓄え、顎を引いてむせないように飲み込んだ。
「前と2分10秒!」
耳を疑った。
(嘘だろ……)
そんなに離れているのか。
ゴールまで、もう残り5キロしかない。さすがに追いつくのは無理だ。
脳裏にそんな声が浮かびかけたときだった。
チームメイトを置き去りにしてからも、後方でまだ声が続いていた。
「お前なら行ける!」
(何を、言ってるんだ……)
どういう理屈かは不明だった。
なぜ、そんな確信を持って言えるんだ。
わからないまま、沼は再び坂を駆け上がった。腕時計が振動して、16キロを通過したと知る。
さあ、そろそろ見えてくるぞ。左側に大きな看板。
国道1号最高地点。標高874メートル。
ついに来た。ここまで来た。

この次の1キロから、コースは一転。
天地をひっくり返したみたいに、急激な下り坂へと切り替わる。
ここだ。ここからが、見せ場だ。
心の中に、颯の顔が浮かんだ。
(おい颯、見てるか)
言ったよな。登り切ったら、あとはとにかく「落ちていくだけだ」って。
腕の力を抜く。脚の力も抜く。
でも、芯だけは抜かない。
体幹は杭のように、斜面に一本突き刺しておく。そこだけは、絶対にぶらさない。
この下りは、四年間の落としどころだ。
誰にも覚えられなくてもいい。明日の新聞にだって、顔写真すらなく、せいぜい小さく名前が載るだけだろう。
肺も足も脇腹も。身体中が、軋みをあげている。手袋の下では指先の感覚が失くなっている。
こんなの、自分一人のレースならとっくに止まっている。
だが、気持ちで負けたら本当に終わる。
反対車線の路面を横目に見る。
いくぞ、颯。
明日、6区を走るお前に、四年間のすべてを置いていくぞ。
* * *
それは、大晦日のことだった。
6区のメンバー選考が、土壇場で突如白紙に戻った。
七林大学には、前回6区4位で走っている三年生の仁家来という選手がいる。
お調子者で、常にテンションが高い。チームメイトからは、ニケと呼ばれている。
ウチの区間オーダーの中で6区だけは、秋口の早い段階で内定。残りの課題は専ら、卒業した柳原さんが抜けた5区の候補者探しだった。
普段、自由時間になると大音量の音楽で騒がしくなる彼の部屋が、その日はしんと静まりかえっていたのを覚えている。
下り坂の練習中にバランスを崩し、足を側溝に取られて捻挫したのだ。
「ごめん、みんな、オレ……」
大泣きで合宿所に戻ってきた。左足には、痛々しく包帯が巻かれていた。
「ダメだ。ニケは間に合わない」
「代わりの選手、どうするんだよ?」
動揺するチームの中で、静かに手を挙げたのは、他でもない沼信之介だった。
沼は、監督にためらいなく進言した。
「神坂、行けますよ」
誰もが耳を疑った。
沼が挙げたのは、5区の控え選手の一年生。
「最近、俺が下りの走りを叩き込んでいるんです。コイツ、意外と飲み込み早くて」
颯が一番驚いていた。
やっぱり急造感は否めない。
けれど、今チームで一番活きが良い選手であることは確かだ。
最近話してみて発覚したんだけど、そもそもこいつ、高校まで野球部で。
陸上のことなんかなんにも知らないくせに、根性だけで食らいついてきていたんだ。
腕振り、呼吸、体幹の使い方、コースのライン取り。
基礎からちゃんと教えたら、面白い具合に変わっていったよ。
* * *
17キロから、一気に下る。
(……ああ、そういうことか)
なぜか、前方に12位の選手の背中が見えるようになった。
そこでようやく、さっき言われた無責任な励ましの意味を理解した。
(もっと、ちゃんと伝えろよな)
そう思わないこともないが、ある意味仕方がない。
給水って、選手よりよっぽど緊張するんだ。待っている間、何言おうか考えているんだけど、いざ走ってくるのが見えると、全部飛んでしまって……。
自分も柳原さんからしたら最悪の給水係だったと思う。大平台で「水!」って言われたのに、スポドリのほう渡しちゃったときは、さすがに血の気が引いた。いや、内緒だけど、内心笑っちまった。
(柳原さん、頭から思いっきりスポドリ被っていたな……)
2分10秒差。
数字だけ見れば、絶望的な差。だがそれは、両者が万全の状態だったときの話だ。
相手選手の足取りは、かなりふらついていた。
懸命に体を支えながら走っているが、明らかに様子がおかしい。
これだけ異常なコースを走り続ければ、ランナーの身にだって、いつ異常が起きても不思議じゃない。決して他人事じゃなく、みなギリギリの状態で走っている。
あの様子なら、下り坂でトップスピードに乗れば、差は一気に縮まる。
(……いける)
沼の目に、消えかけた炎が再び灯る。
重心を前に傾けた。
勝負は、ここからだ。
ふっと、肩で大きく息を吐いた。
▼ 続き
【B-Ambitious 第1章 箱根駅伝5区・山登りを攻略しろ!】
◯ キャラクター辞典
④ 生きた証(ひとつ前のエピソード)
⑤ 激坂の終わり ★
⑥ 渾身の71分(次のエピソード)