布団に入ってからも、なかなか寝つけなかった。「走りたい」だけじゃ、走れない。それが、箱根駅伝だ。
灯りを消した天井の向こうで、どこかの部屋のストーブが唸る音だけが、かすかに聞こえていた。
(仕方ない)
沼さんは、自分より強い。それは、わかっていた。本気で勝とうとして、それでも勝てなかった。
全部、受け止めたつもりだった。
なのに、どうして。
どうして、こんなふうに思ってしまうんだ。
(沼さん、怪我でもしてくれたら……)
すぐに頭を振った。
でも、その思いは、脳裏からなかなか消えなかった。
浮かんだこと自体が、情けなかった。そんな自分に、腹が立った。
布団の中で胎児みたいに丸まって、泣いた。拳を握りしめる。
まだ、誰にも見せられない自分がいた。
すげえよ、沼さん。
三回もこんな思いを抱えていたんだ。
(こんなの、一回でも折れちまいそうだ……)
◇
翌日から、颯は、沼さんの最終調整を手伝う、練習パートナーとなった。
今までと変わらないとも言えるけれど、ペースメーカーとか標的役とか、競い合う以外の役回りを引き受けるようになった。
「次はお前が走るんだぞ」
沼さんは、事あるごとにそう言った。
冗談めかしているようで、その声はいつもどこか血走っていた。
「俺のコース研究の全てを、颯に伝授する」
決まったから言うわけじゃない。前から言おうと思っていた。けど、どう言っていいかわからなかった。
そう前置きしながら、沼さんは、風に飛ばされていく落ち葉をじっと見つめていた。
「これだけやってきて、チームに残せるのが、5区の結果だけじゃ、なんかむなしいだろ」
「5区の結果は、もう残せる前提なんですね」
「残すさ」
二人は顔を見合わせた。
山に来て初めてかもしれない。お互いが、一緒に笑ったのは。
それまでの関係は、どちらかが笑えば、どちらかが顔をしかめていたから。
「俺がやってきたことなんて、誰もカメラに収めちゃいない。ネットにも出てこない。AI様に聞いたって、俺のことなんて知らないって答えるだろうよ」
沼さんは、ふっと笑った。
「けどな。お前だけは、そばで見てきただろう? 俺がこの山にかけた想いを。俺が生きた証を」
この日から颯は、5区の攻略法を伝授されることになった。
◇
箱根駅伝、当日。
神坂颯の姿は、箱根山の頂上付近へ向かって移動する車の後部座席にあった。
毎度のことながら、三郎コーチの運転はまるで教科書をなぞるように丁寧で、こんな山道なのに揺れが少ない。
だからこそ、余計に眠くなる。
(危ない危ない、寝ちゃダメだ)
我らが七林大学は、4区終了時点、小田原中継所を16位でタスキリレーした。
チームの目標は10位。この順位は、非常に大きな意味を持つ。
10位と11位は、「天国と地獄」とまで言われている。
10位以内に与えられるシード権を獲得すれば、来年の出場権が確約される。
逆にシードを落とすと、翌年度は十月の予選にも、一月の本戦にも調子を合わせなければならない。つまり、チームのスケジュールが丸っきり変わってしまうのだ。
「ヌマシン、函嶺洞門では区間3番だったのに、登りに入った途端7番になったぞ。大丈夫なのか?」
助手席の御幸マネージャーが、眉間にシワを寄せ、メガネ越しの鋭利な視線をスマホの画面に注いでいる。
そう。沼さんの走りは、オーバーペースだと思われても仕方がない。
序盤3キロの平坦なエリアで二人を抜き、一気に14位へ上がったとわかった際、車内は大いに沸いた。
だが、7キロの大平台の速報では、全体7番目のペースにまで落ちていた。
颯は首を横に振る。
沼さんの言葉を信じているからだ。
『登りってのはな、やせ我慢しちゃいけねえんだ』
ペースが落ちる自分を受け入れる。
それが、山を攻略するメンタルなんだ。
「いや。きっとこれ、沼さんのプラン通りですよ」
「そうなのか?」
おそらく今、区間上位にいる何名かは無理をしている。
本番で舞い上がっている者や、起死回生を狙ってイチかバチかで突っ込んでいる者が混じっている。
あるいは、格上の選手と並走状態になり、自身の実力以上のペースで走らされているケースもある。
周りが浮き足立っているだけだ。沼さんはいつもどおり。
テレビ中継には、14位のチームはほとんど映らない。次の定点カメラがあるチェックポイントまで待つしかない。
けれど颯は、速報画面上で踊っている『沼信之介』の文字を見ているだけで、不思議と胸が熱くなった。
見えない勇姿に思いを馳せる。
賭けてもいい。沼さんは今、タスキを受け取った時と格好が変わっているはずだ。
4キロの塔ノ沢の温泉郷近くまで来ると、空気が急激に冷え込み始める。沼さんはいつも、それを合図にするかのように、肘までクシャクシャに捲っておいたアームウォーマーを手首まで下ろす。
あれはきっと、「山を受け入れる」スイッチなのだ。
その場のテンションじゃない。
ペース配分から装備の管理まで、緻密に組み立てられている。どこで体温を守り、どこでリズムを変えるか。
あの人は箱根を知り尽くしている。
そういえば、9・2キロの宮ノ下では、通過する選手の名前を呼んで、大合唱の応援があるのだと言っていた。
(ぬーまッ、チャチャチャ。ぬーまッ、チャチャチャ)
駅伝って、たとえ違うチームの旗を掲げている人でも、結構分け隔てなく応援してくれる文化がある。
知り合いでも親戚でもない人がほとんどなのに。今日しか知らない若者の名前を大声で叫ぶのだ。これは凄いことだと思う。
(いいよな。俺も早くそんな中で走ってみたい)
できれば生で見たかった。
人混みを縫うように急坂を駆け上がる、沼さんの集大成を。

そうだ、急坂で思い出した。
「沼さんの走り方って、なんか紙相撲の人形みたいじゃないですか」
「え? 何それ」
「苦しくなると、脇が締まってきて、坂道を張り手みたいに押し進んでいくんです。走るっていうか、移動しているって感じで」
「ははっ。まあ、確かに変わっているよな」
御幸さんはそう言いながら笑ったが、どこか悔しそうな顔もしていた。
「同期の俺より、お前のほうが詳しいかもな」
もちろんだ。
短期集中ではあるけど、颯はずっと沼さんだけを見てきたのだから。
「映った、映った!」
御幸さんが「のこった、のこった」みたいな言い方で、突然大声になった。
小涌園前の定点カメラに、沼さんが小さく姿を現したのだ。
クレーンカメラからコースを見下ろした画角で、両岸を大観衆に挟まれて、沼さんが走ってくる。このあたりは付近の宿泊客もいて、声援が特に大きい。
顔はすでに苦しそうだが、手足の動きはキレッキレ。肩がロックされ、腕が大きく揺れている。
大丈夫だ、まだ行ける。

『続いて通過していくのは、七林大学の沼信之介です。ここまで二つ順位を押し上げています』
黙ってその姿を見つめる。心の奥に、じんと熱いものがにじんだ。
この人は、四年間、何百回、何千回とこのコースで走る自分を思い描いてきたんだ。
たとえ一瞬しか映らなくても、颯がちゃんと知っている。
「頑張れ……沼さん」
颯は、小さく笑った。
(だよな)
やはり沼さんの腕は、手首まできちんと覆われていた。
▼ 続く
【B-Ambitious 第1章 箱根駅伝5区・山登りを攻略しろ!】
◯ キャラクター辞典
③ その日は突然やってきた(ひとつ前のエピソード)
④ 生きた証 ★
⑤ 激坂の終わり(次のエピソード)