沼さんと二人、箱根にある保養所に通う合宿生活が始まったのは、十月の終わり頃だった。
金曜日、十六時半。講義が終わると、颯は寮に戻って黙々と荷造りを始める。
シューズ、着替え、手袋、ウィンドブレーカー。山の夜は冷えるから、ダウンジャケットも忘れずにリュックに押し込む。それからお風呂セットに、モバイルバッテリー。
あとは、沼さんの真似で使い始めたフォームローラー。脚のケアが追いつかないと、土日で潰れる。
一応ノートパソコンも入れていく。レポートの提出期限が近い。けれど、本当に開く気があるのか、自分でも怪しかった。
そして、何より大事なのがライト。先週はこれを忘れて、ひどく怒られた。
「暗くても見えるから、じゃない。自分の身を守るためなんだよ」
ランナー自身の存在を車両に知らせるため。三郎コーチはそう言った。
普段温厚な人だから、声を荒げられて驚いた。以来、ライトを見るたび、その言葉が脳裏に浮かんで離れない。
ちなみに、山の練習をするとき、大学のジャージを着るのはご法度だ。制度上、コースの試走は認められていない。
しっかりルールを守っていても、たまたまコースの近くを歩いていたのを見られて、「七林大学の選手がコースを走っていた」なんて通報されたら面倒な話になる。
代わりに貸し出されるのが、反射板付きの真っ白な無地のジャージ。これならば、どこのチームの学生か、見た目じゃ絶対にわからない。
「それ、ファスナーの持ち手、壊れてるやつだろ?」
沼さんがニヤけながら言った。
「うわ、ほんとだ。使いづらいっすね。最悪」
ちょっとした文句のつもりだった。けれど、颯の視線は自然と、沼さんが着ている同じジャージのほうに向いた。ファスナーがきちんと閉じる、それだけのことが、やけに羨ましく思えた。
「わかった。これ、沼さんが壊したんでしょう」
「ちげえわ」
笑いながら否定した沼さんの声は、どこか空気が抜けたように軽かった。それに、なんだかずっとニヤニヤしているから、余計言い逃れに聞こえる。
「あのなぁ」
黙って怪しみ続ける颯を見て、沼さんが痺れを切らして口を開いた。
「それ、壊したの、柳原さん」
一言で、白ジャージの中が汗ばんだ。
「えっ。えっ。これ、柳原さんが着てたんですか。マジすか?」
「そんな嘘ついてどうすんだよ」
ただの練習着だと思ったら、とんだレジェンドアイテムじゃないか。
壊れたファスナーの根元に指をかけて、ぐっと掴んだ。
まるで、お守りのペンダントでも握るみたいに。
◇
その後、三郎コーチの運転する車に揺られ、保養所に到着する頃には夜になっていた。すでに食堂から夕飯の匂いが漂ってきている。
「いっただきまーす!」
しっかり食べて、明日の練習に備える。
白飯の上に、ゴロゴロとした大きな角煮を乗っけて、かき込む。甘辛いタレが染みた脂身が、噛むたびにじゅわっと溶けて、空腹の胃にずっしり届いた。

正面の沼さんが茶碗を持ったまま、つぶやいた。
「箱根駅伝を目指しているとな……」
箸が止まる。颯が顔を上げると、沼さんは虚ろに窓の外を見ていた。
「人一倍、秋風の切り替わりに敏感になるんだ。そのうちあっという間に、あと何日だ、って数え始めるぞ」
そうか。この人は四年間、「今度こそ」と思い続けて、ついに最後の山生活が始まったわけだ。どうりで言葉に重みがある。
「今から急に速くなることなんて、ない。……やれることって、意外と少ないんだ」
沼さんは、それ以上は何も言わず、黙々と箸を動かし続けた。
◇
翌日の早朝練習。その日はいつもにもまして冷え込んでいた。
なるほど。沼さんの言っていた通りかもしれない。
土曜日はいよいよ山を攻める。
早朝四時だ。ストレッチとアップを済ませても、まだ辺りは暗かった。
颯は初めて知った。富士山の輪郭にポツポツと見えるあの灯りは、山小屋に泊まっている登山客のものらしい。そもそも、こんな間近で富士山を見たこともなかった。

坂の序盤は、落ち着いたジョグペースで入る。
本番さながらに全コースを走ってしまうと、負荷が大きすぎて故障の原因になる。だから練習では、日によって本域で走るセクションを変え、分割して感覚を掴んでいく。
三郎コーチが低速ギアで車を並走させる。後ろから車が来れば、窓を開けて「抜かしていいですよ」と合図を送る。そうやって、くねる坂道を生身で走る自分たちを守ってもらっている。
二人の足音だけが暗い道に刻まれる。
少しずつ息に音が入ってきたあたりで、沼さんが自然にギアを上げた。
ここからはレースペースでの練習。颯もそれに遅れまいと、足を切り替える。
登りは互角だった。山に来た当初は離されたけど、今週になってだんだん慣れてきた。今日は余力がまだある。前に出ようとしたら、沼さんが「シッシッ」と手で振り払った。下がってろ、とでも言いたげだ。
だが颯は、いつまでも後ろで大人しくしているつもりはなかった。
(年功序列なんてものは、山の世界に存在しない!)
先にスタートしただけで、ずっと前を確約されていると思われちゃ困る。颯は沼さんの手を避けて、そのまま追い抜かしてやった。
初めて頂上付近まで一緒に来られた。今日は勝てるかもしれない。そう思っていた。
けれど、コースが折れて、下りに入った瞬間だった。沼さんの影が横から一気にぶっ飛んできた。
(あれ、速い……?)
そう思った次の瞬間には、もう背中が前方にあった。走りが明らかに変わった。
颯の脚は、山の斜面にアイゼンを突き刺すように痛々しく接地している。しかし沼さんは、山を受け流すように流れていく。足音が軽い。弾んでいるのに、跳ねていない。
差が広がり、背中はどんどん暗がりに溶けていってしまう。
「じゃあ、6区行けよ……」
思わず、声が漏れた。悔しい、を通り越して、唖然としてしまった。
ちょうど逆コースにあたる、下りの6区を走ればいい。そう思うくらい、残酷なほどスムーズに駆け下っていく。
いつもは山の中腹で離されていたから知らなかった。一番差がついていたのは、頂点を過ぎた「下り」だったんだ。
実際の5区のコースにも、ラストに芦ノ湖へ向けての下り坂がある。
どうやらこのポイントは、ペースもフォームも、まるで別のランナーが乗り移ったみたいに、走りを切り替えなきゃいけないらしい。
ゴール地点の駐車場で合流したとき、沼さんはすでに静かに呼吸を整えていた。
颯は、真っ直ぐ立てない。声も出せない。
頂上付近では遮るものがなくなり、逆風が襲いかかる。その中をもがき尽くして下るしかなかったせいで、みぞおちを殴られたみたいに、ガクガクと腹筋が痙攣して動けなかった。
横顔をチラリと見やると、その人は涼しい顔をしていた。
(くそっ)
車から降りてきた三郎コーチが、対照的な立ち姿の二人を目撃する。首から下げたストップウォッチを交互に眺めている。こんなんじゃ、どちらが選ばれるかは、一目瞭然だ。
まだ自分は、山の全部を知らない。今、ようやく思い知らされた。

【B-Ambitious 第1章 箱根駅伝 5区山登りを攻略しろ!】
◯ キャラクター辞典
① 山を目指して(ひとつ前のエピソード)
② 箱根に通う日々 ★
③ その日は突然やってきた(次のエピソード)
④ 生きた証
⑤ 激坂の終わり
⑥ 渾身の71分