【B-Ambitious’箱根駅伝】1-1. 山を目指して

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山には、神様がいる。

ドンッ、パンッ、バババンッ。

山のどこかで、破裂音が打ち上がっている。

日中の花火に遭遇するなんて、たぶん一年のうちで今日と明日くらいのものだ。

とことん非日常的で、やっぱり時々、まだ夢の中にいる気分がしてくる。実体を見ていないのに、煙っぽく霞んでいく余韻まで不思議と想像できた。

骨を切るような冷気が、長袖のユニフォームを貫き、肌を通して体の芯まで凍らせてくる。

吐く息が白いもやとなって漂う先に、二台の白バイがエンジン音を低く響かせながら、峻険な坂を登っていく。

おかげで選手は道を覚えていなくてもいい。公道の真ん中を走ることに、なんの躊躇も要らない。ただひたすらあの機体を追い続ければよいのだ。

そうは言っても、目の前に次々現れる上り坂は、本当にどれもこれも、つい路面に手を突きたくなるほど急だ。頭ではわかっていた。覚悟もしていた。それでも、実物は軽々とイメージを超えてくる。

ぜえはあ、と息が切れるとか、そんな話じゃない。身体中が痛いんだ。あちこちのパーツが、もうだいぶ序盤から悲鳴を上げている。

誰だよ、こんな道、人間に走らせようなんて考えた奴は。あれだけこの舞台を夢見てきた俺がそう思える時点で、この坂のキツさは相当だ。

東京箱根間往復大学駅伝競走。通称、箱根駅伝。

始まりは大正九年、一九二〇年。「世界に通用する長距離選手を育てる」ことを目的に、ある青年の手で企画された。

東京・大手町から神奈川・箱根芦ノ湖まで、全長217・1キロを十人でタスキを繋ぎながら走る。

学生たちの勇姿は、正月の風物詩として今もなお親しまれ、毎年のように三〇%前後の視聴率を叩き出している。

中でも、山登りの5区だけはまるで別競技。全長20・8キロ。高低差は約840メートル。多くが憧れる「花の2区」には目もくれず、俺はこの5区で勝負したくて、今日まで走ってきた。

熱意だけじゃ走れないのは確かだ。それでいて、冷める暇も許されないまま、箱根の山は俺をさらに奥へと引きずり込んでくる。

いやはや、こうしている間にも、思考がどんどん暗く、マイナスに引っ張られていく。


「おい、10キロ通過、33分46」

ゴールまでおよそ半分にあたる10キロ過ぎ。後方の運営管理車から、石堂いしどう監督のドスの効いた声が飛んできた。

「いま区間5位。いいか、ひとつ前の赤藍せきらん大学とは30秒差」

たしかに、ずっとカーブで見えてこなかった前の選手が、少しずつ視界に捕らえられるようになってきた。

前に誰かいるのは走りやすい。コース取りをなぞる上でも、カーブで大回りする白バイより、生身のランナーのほうがずっと自然だ。

バイクカメラが寄ってきた。俺に向けて何か実況しているらしい。

そうか。俺は今、テレビの中で走っているんだ。

*  *  *

箱根山中を駆け抜けた神坂こうさかはやての名は、箱根駅伝ファンの間でも印象深いはずだ。だが、ぬま信之介しんのすけという選手を覚えている者が、一体どれだけいるだろうか。

これは、箱根の山に青春を捧げ尽くした、二人の学生ランナーの物語。



神坂颯は回想する。

山の神・柳原やなぎはらさんを初めて見たのは、中学生の頃だった。

正月、実家の炬燵こたつに入り、みかんを剥きながら、なんとなく眺めていたテレビ。あれが、すべての始まりだった。

皆がもがき苦しみながら進む中、一人だけまるでスクーターのように軽やかだった。あの人が映るときだけ、画面のコースが上り坂に見えなくなった。

「山の神、ここに誕生!」

実況は彼をそう呼んだ。

あれから四年。今、颯はその柳原さんと同じ七林しちりん大学に入学し、同じ黄色のユニフォームを着て5区を走るべく、選考合宿に食らいついている。

競争相手は、沼信之介。三つ年上の先輩、つまり四年生だ。

その風貌はどこか仙人を思わせる。

背中は丸く、髪はボサボサ。

頬の肌は、乾ききった木の皮みたいにひび割れていて、ところどころ黒ずんでいる。

日焼けというより、何年も山の風と太陽に晒され続けたせいで、すすけたような色に染まっていた。

身にまとっているのは、いつも灰色と白のくたびれたランニングウェア。もともとその色だったのか、洗濯するうち色せたのか、もはや判別がつかない。

この人の部屋に同じものが何枚も干されているのを見たときは、ちょっとしたホラーに思えた。

毎日同じウェアで、毎日の坂道ジョグを欠かさない。本当に、山を登るためだけに存在しているような人。

ある日のトレーニングルームで、こんなことがあった。

颯は初めてA寮のトレッドミルを使おうとしたのだが、傾斜のつけ方がわからなかった。

「すんません、沼さん」
「ん?」
「坂道の設定って、どうやって……」
「んあ。お前、初めてか」

マットに座ってストレッチをしていた沼さんが、むこう向きに俯いたまま、立ち上がった。首が妙に長くて、ヒョロっとした猫背がいっそう際立って見える。

妖怪はそのまま、頭をかきむしりながら、のそのそとこちらへ近づいてきた。

「ここで傾斜を変える」

と言っても、沼さんが視線を向けているのは颯の足元だ。そのままコントロールパネルを一切見ることなく、慣れた手つきで傾きを操ってみせる。

「ちなみに、3キロ付近にある箱根湯本はこねゆもとの駅前がこのくらい。けど、こんなのはまだ序の口」

沼さんは心なしか嬉しそうに解説を続ける。



大平台おおひらだいのヘアピンカーブのあたりなんか、これくらい。でも一番エグいのは、10キロ手前から。宮ノ下みやのしたの交差点を左に曲がったところで、一気にこんくらいになる」
「えっ」

背中が震えた。

箱根の坂にビビったわけじゃない。この人、箱根の各ポイントの斜度をすべて暗記していやがる。

修行僧を前にしてつい拝みたくなる、そんな気持ちになった。

ああ、この人はずっと、ひたすら山を登ることだけを極めてきたんだな、って。

しかも、過去三年はあの柳原やなぎはらさんがいたから、ずっと控え選手だったという。

どれだけ準備したって、5区はあの人が走る。そんなことが三度も続けば、普通は腐る。諦める。他の道を探す。

けど、沼さんは違った。何度でも立ち上がり、次の箱根駅伝のために、また淡々と練習する。そして、柳原さんが卒業した今、ようやくチャンスを掴みかけている。

まるで、山の化身だ。練習コースにいるときより、寮内の人工物に囲まれた空間のほうが、この人にはよっぽど場違いに感じる。

尊敬。それは間違いなくある。

でも、それだけじゃない。颯の中には、もっと黒くて熱いものが渦巻いていた。

箱根の山に魅せられちまった者同士だ。食らいつきたい。この人と、本気で山を賭けた争いがしたい。

颯にとって、これは譲れない序章。柳原さんと全く同じように、四年連続で5区の区間賞を取りたい。

そのためには、なんとしてでも一年目から走らないといけない。チーム内競争なんかで負けていたら、

「山の神」になりたいだなんて言えない。

これだけの人に勝てたら、きっと山の神にだって近づける。

この背中を、越えるしかない。
 
▼続く


【B-Ambitious 第1章 箱根駅伝5区・山登りを攻略しろ!】

◯ キャラクター辞典

① 山を目指して ★

② 箱根に通う日々 (次のエピソード)

③ その日は突然やってきた

④ 生きた証

⑤ 激坂の終わり

⑥ 渾身の71分

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